認知症と優しさ

子供の頃の思い出です。

夕方、丁度晩ご飯の支度で母がバタバタしている時間帯でした。

外は暗かったと記憶しています。突然、隣に住むおばあちゃんが訪ねて来られました。

私の実家は大変な田舎でしたので、玄関にカギなど誰もかけません。そもそもカギが付いていません。呼び鈴もありませんから、お客様はいきなり戸を開けて入ってこられます。

このおばあちゃんも当然いきなり玄関のドアを開けて入ってこられました。

母が普通に応対に出たのですが、おばあちゃんは突然謝り始めました。

「主人が大変なことをいたしまして、本当に申し訳ありませんでした。どうか許してやって下さい。」とまさに平身低頭。

私は子供でしたが、どんな大変なことをされたのかと興味が湧いて母の後ろに隠れて聞いていました。

 

母は最初何が何だか分からないといった状態でしたが、途中からおばあちゃんの話しに合わせて普通に会話をしていました。

ほんの数分も話したらおばあちゃんは気が済んだ様子で帰っていかれたのですが、実はそのおばあちゃんの「主人」はとっくの昔に亡くなっています。

つまりこのおばあちゃんは認知症になっていたのでした。

この出来事を皮切りに、おばあちゃんは村中のあちこちの家に「主人」の事で謝りに行く様になったのですが、おばあちゃんが来られた後には決まってその家の若奥さんが「先ほどはおばあちゃんが変なことを申し上げてすみませんでした」と、フォローに廻る姿を子供心に覚えています。

これって、今考えたら本当に優しい対応だなと思います。普通はこのおばあちゃんを家に閉じ込めようとするかキツく叱るなどしたくなると思うのですが、この若奥さんはおばあちゃんを自由にさせ、その代わり村の人におばあちゃんがボケてしまったのでよろしくと頼んで廻ったのですから。

勿論、人付き合いが濃密な田舎ならではの話しではありますが、我々子供達もそのおばあちゃんと接する時にはどう対処するべきか家族からそれとなく聞いていましたし、変な場所で見かけたら大人に知らせるように言われていました。

これが私にとって人生初の認知症体験なのですが、割と最近になってからこれと真逆の認知症体験もしました。

数年前まで住んでいた家の向かいの方の話しです。

その家は、おばあちゃんと独身の息子さんとの二人暮らしでした。当時息子さんは恐らくまだ40代前半ではなかったでしょうか。

私もそうでしたが、40代でバリバリ仕事をしていたりすると、「介護」といった世界とは全く無縁ですし、まさか自分の親に介護が必要になるなんてまだまだ考えられない年齢です。

当然、認知症やお年寄りの体に関する知識など持ち合わせていません。

ところがこの家のおばあちゃんは、当時70前後と若かったにもかかわらず認知症になってしまいました。

徘徊の症状もあり、かなり遠方で保護されて息子さんが迎えに行くなどされていました。

息子さんも仕事をしながら認知症のお母さんを抱えての生活がキツかったのでしょうね。

大きな声で母親を叱りつける声が頻繁に聞こえてくるようになりました。

そのうちお母さんを自宅に閉じ込める様になり、見かねた近所の方が介護サービスに繋いだという事がありました。

冒頭でご紹介した私の子供の頃の経験とは真逆の対応をこの息子さんはした訳ですが、この方を攻めるつもりもありません。

息子さんにしてみれば、日に日に壊れていく母親を目の前にして冷静でいられなかったのでしょう。

二つの体験を通じて思う事は、やはり人間の生活というのは「余裕」がなければいけないと言うことです。それは経済的な事ではなく心の部分での余裕という意味です。

それから「個人」はもちろん「地域社会」にも余裕が必要です。「繋がり」もですかね。

冒頭の田舎の若奥さんの対応などは地域を信頼していないと出来ない対応です。

一方で母親を自宅に閉じ込めた息子さんは地域を信頼していなかったでしょうし、地域の方との繋がりもありませんでした。

ただ孤独に悩んでおられたのではと推察します。

今自分が住んでいる地域を見渡してつくづく感じる事は、こんな余裕のない社会を子供達に渡して良いのだろうかという事です。

私たちは何か間違ったものを求めすぎたのかもしれません。

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