料理をする方なら誰でも思い当たると思いますが、料理を作ろうと考えた時には必ず誰の為の料理かという所から出発します。家族がある方なら家族に食べさせる為になりますし、独り暮らしの方なら自分の為の料理となります。
どの場合でも必ず自分を含めた誰かのことを思いながら行う行為が料理という行為です。
ただ空腹を満たす為だけなら出来合いのものを買ってきて食べれば良いわけですから、それでもなお何か料理をするという事は空腹を満たす以外の目的を持って料理しているわけで、そこには必ず「誰かのことを思う」という心の動きがあるわけです。
主婦の方なら、スーパーで買い物をする際には家族の好みを考えながら買い物をしているはずです。その際に「自分は家族を思いやっているぞ」などと誰も思わないですし、逆に好き嫌いについて面倒くさいなあなどと思っているかもしれません。
しかしその面倒くさいと思いながらも食材を選んでいることが他を思いやっている事実にほかなりません。
私が父を介護していたときの話しです。
私はあまり果物を食べないのですが、父はとても食べたがります。なんでもいいのでとにかく何か果物が冷蔵庫に入っていれば喜んでいました。
しかし自分が食べたいと思わないので、最初の頃はよく買い忘れる事がありました。
そんな時には父はとても残念そうにするのですが、だからもう一度買いに行けとも言いません。ただ黙って残念そうにするだけです。
私も仕事をしながら介護をしているわけですから、正直父の好みをいちいち聞いていられないといった感情も当初はありました。
しかしそういった中でも果物を食べる父のうれしそうな顔を見ているとやはり心に温かい物がこみ上げてきます。
気がついたら果物を切らさないことを逆に私の方が気に掛けるようになりました。
ほんとに些細な事ですが、こうした事の積み重ねが日々の暮らしに潤いを与えるわけですから、「料理する」という行為は人間にだけ許された能力であると同時にとてもおろそかに出来ない大切な日々の営みであると言えます。
別な言い方をすれば、「料理する」とは愛の表現そのものと言ってもいいのではないでしょうか。そして勿論、作っていただいた料理を「食べる」事も立派な愛の表現だと思います。