謎の訪問者

もう随分前の話になるのですが、その日私は朝食の担当で、早朝から厨房で時間に追われながら仕事をしていました。

朝のスタッフは調理の私と調理補助をして下さる女性の二人です。二人で何十人分もの朝食を全て準備しますので、無駄話もあまり出来ずとにかく必死に目の前の仕事をこなすといった事が多くなります。

調理師の私は黙々と煮物や和え物など仕上げていって、それを調理補助の女性に渡して盛り付けをしてもらいます。

盛り付けが終わったら一旦それを冷蔵したり保温したりしながら、今度はお膳の準備にとりかかります。

広い作業台にトレイを沢山並べ、そこにお箸やスプーンなどをセットしていき、常温でも問題ない漬物や海苔やパンやジャムなどを並べて行きます。

わずか2時間ほどの間に調理からセットまでやってしまいますので、朝の調理場は黙々と集中して作業していることが多いです。

その日も私はいつも通り料理を作り、それを補助の女性と連携しながら盛り付けたりしていたのですが、何となく背後に気配を感じて後ろを振り向いたら、すぐそこに見知らぬ老婆が立っていました。

厨房の入口はホームの入口とは別になっていますし、普通はスタッフ以外入ってこないのが施設の厨房です。

いくら場所が老人ホームだからと言って、そんな場所に見ず知らずの老人が一人ぽつんと立ってこちらを見ていたら、それは驚きます。

私は思わずギャッと声が出そうになるのを堪えて、その女性に「何かご用でしょうか?」と尋ねました。

すると女性は「ここは食堂ですか?」と尋ねられたので、「ここは厨房で食堂はこの壁の向こう側になります」と言ったら、「何か食べる物ありますか?」と言って作っている料理をじっと見ています。

不安そうな表情や話し方からすぐに認知症の方だなとは察しが付いたのですが、見た事のない顔だったので、そのホームの入居者ではなさそうでした。

認知症の方が目の前の食べ物を食べてしまう事があるのを知っていましたし、それをされるとこちらも困るので、とにかく厨房から出て行っていただこうと思い、出口の方にご案内したのですが、その女性しばらくは出て行こうとせずに厨房横の倉庫に入ったり事務所のドアを開けようとしたりした後、とうとう諦めて出て行かれました。

私はすぐに施設の方に女性が一人迷い込んでいると連絡したのですが、スタッフが施設内をいくら探しても結局その女性は見つかりませんでした。

施設としてもその方が入居者さんだったならどうやって厨房までたどり着いたのか対策を立てる必要がありますので結構大騒ぎして探したのですが見つかりませんでした。

ちなみにそのホームの厨房は施設の食堂と繋がっているドアとは別に、スタッフ専用の出入り口がありまして、その出入り口にはビル一階のエレベーターに乗って10階まで上がってくる必要があったのですが、そのエレベーターに通じるドアは午前9時までは施錠されていて、一般の方は入って来られない構造でした。

それなのに、その老人はスタッフ専用の入口から入ってこられたんです。

そして忽然と消えてしまった…。

と言っても、ドアを出てすぐにエレベーターがありまして、外から入ることは出来なくても出て行くことはカギが無くても出来ましたから、恐らくすぐにエレベーターに乗り外に出てしまったのでしょう。

結局その老人がどうやって入ってきたのか誰も結論を出せないまま、この問題はうやむやになってしまったというお話しでした。

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