先日、いつも送られてくる雑誌をパラパラと見ていましたら国際結婚でドイツに渡った方の話しが載っていました。
その中で、義理の両親をドイツで看取った話しがあったのですが、日本との違いに驚いてしまいました。
ドイツでは歳を取って食べられなくなると、もうその時が来たと認識して自然に任せるのが普通で、点滴や胃瘻などで命を維持する習慣はないと書かれていました。
中でも彼我の差を感じたのは、痰の吸引はよほどの事が無い限り行わないのだそうで、自分のチカラで痰を出す事が出来ないと体が良くならないからとハッキリ言われるのだそうです。
日本の病院や介護施設では痰の吸引は普通に行われていますし、あまりに普通なので本来医療行為は出来ないはずの介護福祉士さんにも吸引だけはやってもらおうという流れになってきています。
話しが逸れました。
今日の記事は死に方も自分でハッキリと、それも早めに意思表示する時代になったという話しです。
先に紹介したドイツの様に、自然の成り行きに任せる社会的コンセンサスがある場合は良いのですが、残念ながら日本ではとにかく延命するのが医者の仕事ですし、ハッキリと意思を表明しないことには全身チューブだらけにされた上で死ぬに死ねない状況を作られてしまいます。
近年はそうした事が問題視されるようにもなりましたので、延命治療は拒否したいと考える方が増えている様ですが、いざ自分が意思表示出来ない状況で病院に運び込まれた際に、誰がどうやってその事を医師に伝えるのか、元気な若い内に決めておく必要があります。
私の場合は、そういう事を書いたものを常に財布に入れて持ち歩くようにしているのと、息子達にも私に何かあった場合には、回復の見込みがない状況での延命治療は拒否してくれるように伝えてあります。
もちろん息子達にとってはいざその時に、しっかりと父の意志を伝えることは中々大変かもしれないですが…。
そう考えると、子供が親を介護する「介護生活」というのは、親が子供に自分の死に方をしっかりと伝え話し合う場としてとても良い環境ではと思います。
私が父を介護していた時には、末期のガンが見つかった段階で父がハッキリと治療は拒否すると言いましたので、私もそれを受けて大きな病院から掛かりつけのクリニックに転院させていただき、クリニックの先生にその旨を伝えて終末期ケアに移行していただきました。
日々現れる辛い症状に関しても、父は一切愚痴を言わずにただその時が来るのをじっと待っていたように思います。
これは父が自分はそうやって死のうと決めたから出来たのだと思いますし、隣で世話をする私もその選択を尊重する事が父の人生にとって一番良い事だと感じましたので、何も言わずに毎日好きなアルコールも飲ませましたし、その事を今でも良かったと思っています。
人はいつ何時、自分や身内の死に直面するか分かりません。
いつその時が来ても良いように、自分や大切な家族の「死に方」を真剣に考えることも必要なのではと思います。